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西新宿 彩旬亭

一ひとこと言 第586号 を発行しました



気が付けば新型コロナウィルスが騒がれるようになって一年が経ちました。そして令和も三年です。
先日、昭和元年生まれの方のお葬儀をお勤めさせていただきました。昭和初期は、生まれるのも死ぬのも自宅でした。それが平成では生まれるのも死ぬのも病院となりました。
自然と命の始まりと終わりに触れ合うことができていたのが、更に令和になって新型コロナウィルスで、家族であっても病院へ出産のお見舞いも看取りもできなくなってしまいました。
誰もが気が付けば生まれていました。生死を見ることによって命を考えさせられていたのです。生まれたときは素っ裸で、お乳に愛情、下着に服、食べ物という他の命、生活と知識に知恵、全て頂きものでした。
命に出遇うと感謝しかありません。命に出遇うことなく生きていると、我執の固まりとなってしまいます。我を張らずに、感謝を周りの人にお返ししましょう。それが自然な姿です。
親から頂いた命を生きてきたのです。実は私は存在していますが、存在していないのです。

 



ご先祖様から、親から頂いたいのちであります。名前も食事も自然のはたらきと恵も学費も…数えればきりがありません。
自分の意識と考えが育ち我というものが育ってくると、私の為にしてくださっていることでも「ありがた迷惑だ」、私の為に助言してくださっていることでも「鬱陶しい」、私の為に叱ってくださる人を「嫌いだ」、助けてくれようとしてくださっている人も「邪魔だ」。よくよく考えたら、私の経験を元に出来上がった私だけの価値観、それは邪見驕慢の我執でしかありません。
大きな問題は、我執を当たり前に生き、場合によっては他人に押しつけている場合があることです。日々仏さまに私の生き様を診て貰いましょう。診て貰うとはお聴聞です。ずうっと静かにその生き様でいいのか、確認して生きよとはたらいてくださっていまして、それをお慈悲といいます。お慈悲を感じられるか感じられないかで己の我執の強さもわかります。

 



勉強が苦手な子どもは、当然成績が悪いです。それは学ぼうとする気がないからです。しかし高校生や大学生になってくると変わってきます。それは成長と共に専門に分かれていくので興味や意欲が沸いてくるからです。それを「聞く心がある」と言います。
生死が自宅から病院へ変わってしまった上にコロナですから、命や人生について聞く心が開かれる場面がかなり少なくなっています。しかしながら避けては通れないのです。生まれたからには必ず死ななければならないのです。それは若くともです。
我が人生を阿弥陀さまは導いてくださいます。真剣に聞く心を持ってお聴聞ください。

宗教法人 西教寺